特集 再始動 第一回 加藤覚 陸上競技部監督


加藤監督 来年へ向けてのコメント

満足するのはまだ早い!!シード権奪還だ!!

第85回大会を総合14位でゴールした専修大学陸上競技部。

今回はそんな陸上競技部のメンバーに、 箱根を目指すまでの道のり、来年への「再始動」 の気持ちをインタビューさせてもらった。

第一回は専修大学陸上競技部 加藤覚監督。

監督就任から6年。専大で育ち、専大に生きた彼が、 今思う

こととは...


加藤 覚(かとう・さとし)専修大学陸上競技部監督

東京・目黒区生まれ。 47歳

藤沢商業高校(藤沢翔陵高校)から専修大学へ入学。 4年次には1区間3位と活躍。

日産自動車、ダイエー(選手後コーチを務める) などの実業団で活躍後、専大陸上競技部のコーチとして就任。 04年に監督就任。以降、5年連続箱根駅伝出場、 83回大会でシード権獲得。


高校時代はどうでしたか?

陸上を始めたのが高校からだね。 高校では高校駅伝が大学生で言う箱根駅伝みたいな感じでメイン競 技だった。「トラックはインターハイ、ロードは高校駅伝」 みたいに。それを目指して頑張りたくて、陸上を志しました。

高校1年生の時は故障が多くて辛い時期だった。 でも調子を合わせて高校駅伝県予選会の3区間で区間賞を獲れたん です。 そしたら周りは強い選手がいて自分は2番手3番手くらいだったん だけど監督から全国大会の1区間に抜擢してもらったんです。( 1区間は高校駅伝のエース区間)その時は本当に驚いたよ。 それほど偉大な大会なんで。 本番は緊張から震えあがる思いで走って、 背負うものの重さに恐怖を感じながら、 区間9位で走ることができた。その時くらいから「俺はやれる!! 」って思えるようになったね。

高校生だったからまだ駆け引きっていうこともはっきりと分からな いし、そこを教えてくれる人もいなかった。だから、 とにかくがむしゃらに走りこんでいた。 自分は監督として予選で力を温存させて本番に向けるとか選手の計 画を立ててるけど、この時はとにかく勝ちたい!!負けたくない! !って気持ちが前に出てましたね。

その結果、インターハイの5000メートルで予選会、地区大会、 関東大会、全国の全大会で1位をとることができた。 それは今までの長い陸上生活でも一番誇ることができる記録だと思 います。

専修大学に入学したきっかけは・・・

現在陸上部の部長をされている野呂さんが誘っていただいたのと、 高校の先輩も入学していたこともあって、専修大学に入学しました。

入学してみると、やはりレベルはそんなに高くなかったね。 いつもの箱根駅伝でもシード権ギリギリの位置だった。( その時の箱根は15チーム出場で先専修は9位くらい)でも、 インターハイに出場するような選手も何人かいたし、 先輩もなかなか早い選手がそろっていたと思います。

自分はやはり、大学内の戦いというよりは外との戦いだった。 高校時代のライバルが他校にいたから毎年の箱根で彼らと戦って勝 つことをいつも考えていました。現在、 中国電力で監督として活躍している坂口泰とか、 熊本工業高校の監督とはよく競ってたね。

今までの個人競技の考えとは違って、 駅伝は一人で走るものではない。 10人で戦う勝負だから一人が強いからと言っていい成績を出せる わけではない。ってことがよく分かれた時だったと思う。

卒業後、日産自動車の実業団に入社されましたが・・・

熱心に勧誘していただきました。 神奈川の先輩がたくさん所属されていたし、 やはり世界の日産だから、 陸上も思いっきりできるのではないかと思って入社しました。 車も好きだったしね(笑) 自分が入社したころはチームの強化を行っている時で、「 リッカーミシン」 という駅伝の名門陸上競技部を吸収合併を行ったんです。だから、 初回から大会で1位を獲れるいいチームだった。 それは自分にとってとても恵まれていたと思います。

日産からダイエーのほうに移られましたが・・・

移籍で入社しました。当時、「マラソンのダイエー」と言われ、 バルセロナオリンピックに出場されている中山竹通さんとかが所属 している名門チームだった。 そのダイエーが駅伝部を作りたいと考えていてそれだったらと移籍 しました。当時のダイエーは巨大グループだったし、バレー、 野球(福岡ダイエーホークス)、 陸上の3種を重点的に強化していたから、プロ感覚だったね。

のちにダイエーのコーチとして活躍されていますが

ほとんどお手伝いみたいなものだったけど、 今の自分の原点となることを数多く学んだと思う。 ダイエーはプロ意識が高くて、とにかく勝つことにシビアだから、 負けちゃいけないってやってました。 その勝負に対する強い執着心は今でも自分の。

専修大学の指導者として

今まで陸上をやってきて「自分はこの(陸上) 世界で生きていきたい」っていう意識があった。 その時に大学のほうから指導者としてのお誘いがあったため入らせ てもらいました。

当時入ったころは環境が良くなかったと思う。 当時は東生田のほうで生活していて食事も自炊だった。 夜はエイカさん(陸上競技部がよく食事をしている食堂) でお食事させてもらっていたが、 それも週3回くらいだけだったから栄養バランスも整っていなかっ た。 選手たちはその環境の中一生懸命やっていたけどこのままでは出場 すら危ないと感じていた。1回良い練習をしても、 2回3回とその良い練習が続かなければ意味がない。

当時の監督は昔からの駅伝を重んじる方だったから、 新しい考えを持つ選手と反発しあっていた。 両方の意見ともよく理解できるので、 互いに取り入れながらチームを強くしていこうと思っていたが、 その提案を監督に聞き入れてもらえなかったことが多く、 その時はとても悔しい思いをしました。

今では設備もよく整ってきたが、しているわけではないと思う。 選手ってものはとてもデリケートなもので睡眠時間をとらなきゃい けないとか、サプリメントをとらなきゃいけないとか、 飲み水をミネラルウォーターしか飲まないという子もいる。 そのくらいデリケートな生活をするから、 もっと完璧にと思うこともあるし、そういう意見もある。しかし、 至れり尽くせりだと、選手たちはがんばりきれないと思う。 多少つらくてもその与えられた環境の中で工夫して強くなることが 大切なのではないだろうか。理想を言えば、ああしたい、 こうしたいってものは出てくるけれどね。(笑)

いきなり優勝しろ!!って言うのは無理なことだけど、 箱根駅伝に出ることは決して無理なことではない。 だから選手がどれだけ努力するか。 そして2年前のシード権獲得のようにいかにチャンスを生かすこと ができるか。努力すれば、 またチャンスに巡り合えると信じています。

専大陸上競技部の理想像とは・・・

たぶん誰でも思うことだと思うけど、 とにかく勝てるチームになることだね。 それと選手が4年間ちゃんと、練習をこなすこと。諦めたり、 投げたりしないこと。 3年生くらいになると自分の位置って言うのが分かってきて俺はダ メだって思っちゃうことがある。 その時にいかに逃げないかが重要。そうすると、 100パーセントではなくても、 少しでも自分の目標に近づけることができる。好きな陸上で、 覚悟の元に入ってきたんだから、苦しい、辛いって気持ちだけで捨てちゃうことは自分にも陸上にも失礼だと 思うね。 4年間の間で熱意を持った選手が箱根の地に立つことを信じている !!

これから期待できる選手などはいますか?

みんな期待できます。 練習をこなせている選手は確実に力をつけてきています。

今回活躍された五十嵐選手について

彼は最初はどこの大学からも誘いがかかるような選手ではなかった 。でもウチ(専修)にきて、とにかく努力をした。けがもしない。 私に怒鳴られて苦しい思いもしたこともあると思う。 だけど真面目にもくもくと練習をこなしてきた。 箱根で特別出てきたってことじゃなくて、 今までコツコツと積み重ねてきてたまたまその機会が箱根にまわっ ただけだと思っています。

加藤監督のモットーとは

「一生懸命」 陸上っていうのは個人競技だから、 誰かが途中で助けてくれるってことはない。 だからがむしゃらに努力をすることが大切なことだと思う。

自分の夢を持ち続けること。それは必ず叶う。思いは必ず届く。

加藤監督にとって箱根駅伝とは?

これが全てだね。やっぱり陸上の懇親会とかがあって、 何がやりたいの?って聞くと選手全員が「箱根です。」 って口にする。 だから選手の夢を手助けするために俺達も目指していきたい。

来年に向けての意気込み

今年は総合14番で去年の成績と同じだったが、 去年は3校の棄権があって出場校も今年より少ない中での14番だ ったわけだから、よく頑張れたのではないかと思っている。 本選出場者も7人も残っている。新たな選手も3人入ってくる。 予選会も絶対突破できると思っています。 今年の修正点を生かしつつチームを1年間かけて作り直して、 悲願のシード権獲得を狙っていきたい。 去年より絶対に強いチームを作ります!!

(山口 高弘 商1)







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